日曜日, 3月 02, 2008

老兵は死なず、ただ消えゆくのみ という言葉。

この言葉、実は今の若い世代にとってこそ理解しやすいものであるのではないか。
BeepCapです。

これさぁ、一見深いようにも見えるのだが、少なくとも言葉の表面上は
「死の辱」から逃げる行為なんだと思うのよ。立つ鳥後を濁さずとは根本の部分で違うのではないかとね。

で、それを前提として話す訳だけど、現在のインターネットというのは実に様々な人間模様が展開されている。特にその中にすむ「キャラクター」の栄枯盛衰は凄まじい物がある。
そうつまり、キャラクターに死が訪れるわけだ。
リアルワールド(現実世界)に於ける人間の死は、痛みを伴ったりそれでなくても消滅の恐怖が付きまとうけれども、少なくともネット(仮想世界)での死はただの存在の消失だ。ゲームに限らず、そのキャラ固有の状況が消去されたら、はい終了。そのキャラに関する記憶を周囲の人間が記憶するに止まる。
そういう意味において、死後が近くできるということも含めて、現代の特にネットに常駐する類の人間は存在的な臨死体験を繰り返す事になるのではないか。
そして、知らず知らずのうちに、明示的な「死」であるキャラクターの消去または掲示板落ち宣言(ネット落ち宣言等も含まれる)よりも、この「消え行く」というのを選ぶ傾向にあるのではないか。

そうと考える根拠は、厭世的な感情を「死に対する反応」に見るのではないか、つまりそれは十分に感動的でなければならず、本人にとっては欺瞞としか思えなくても本気で「悲しむ姿勢」を崩さないその他の人間達。これでは所謂「復活」などもしにくい。本当に故人の事を考えるならば、間違いなくそれは故人が居なくなった後も日常が続いている状況そのものなのだ。おそらくは、その上で「ふと思い出してもらう」くらいでちょうどいい。
で、あるからこそ、件の言葉は、厭世感がにじみ出してはいやしないか。「老兵は死なず、ただ消え行くのみ」とは、正にこのように死をとらえる人間の言葉であると私は考える。


ただし、明示的な死を自分に賜る(もとい、キャラクターに言及せず自殺も内包する)メリットは十分に存在する。
これについてはまたの機会ということで。

ではまた。

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