木曜日, 8月 11, 2011

リアリティ

さいきんもしドラとか流行ってるみたいですね。ドラッガーがさんが聞いたら、どう思うのかな。日本人の金儲けさが下手なのは、ドラッガーさんみたいな人の書籍を「一例」として客観視することが出来ずに、「啓蒙本」と捉えてしまうからじゃないのだろうか。
beepcapです。

さて、やねうらお-よっちゃんイカを食べながら、息子語録を書き綴る - もしドラはこう解釈しろ!などが話題になっているんですけど。
この問題って、要は「リアリティ」に対する許容範囲が違うと、その小説の評価が著しく違うという点も要因としてあるのではないかと思います。
例えば、ペリーローダンの作中で、今回の話題のように、「店員があまりに客の意を汲まずに、ドラッガーを薦めたのではないか」という点が問題になるかといえば、それは「リアルにすべき商習慣も時代も違う」可能性が高く、おそらく誰も話題にしないでしょう。
もしドラ話は、”あくまでリアルな高校生活を送っている主人公”にドラッガーという異物を与えて。それを使いこなしていくところに、日常と非日常の交わる面白さがある。という作品であることは間違いないと思いますが、で、あるなら、細部のリアリティにはこだわって欲しい。
というのが、やねうらおさんの主張なのだと思います。

ちなみにただ批判ばかりしていてもつまらないので
もし僕が導入部を読んだ編集ならば、こうアドバイスするでしょう。

そこで、ドラッガーを渡す必然性をこっそり持っておくべきだ。
と。
あくまで、一例ですが例えばドラッガー信者に”なりつつある”店員にとって
どこまで通用するのかという実証の場が欲しく、哀れな女子高生に敢えてすすめた とか。
最終話で、それがその大学生のレポートや論文の題材となった形で閉めるとか。
そういった必然性は、読者に脳のトレーニングをさせるだけでなく、物語にメタな存在がいるようにかんじさせ、面白みを増やすと思うのですけどね。
ま、そんなお話。

beepcapはもしドラの作者 岩崎 夏海氏を応援します! (ちゆのパクリで締め)

0 件のコメント:

自己紹介

自分の写真
NetRadioDJ ...since 2003, Programer ...since 1994