土曜日, 8月 15, 2009

才能とは

世間では天才と呼ばれるに相応しい若年層が急増しています。
セキュリテイ/プログラミングキャンプ(spcamp)や
ジェネレーション91(g91)といったような場で、主に高校生以下の世代が大きく発言を行っているのです。

技術を扱う人間は、常に好奇心をもっていなければならないと私は常々考えています。
例えばある問題を解決するとき、それを定石のみをもって解くことしか出来ないのなら、
あらゆる学問の発展はもちろんありませんし、そして企業としてお金にもならないでしょう。

信頼出来る技術”のみ”に頼る時代は、長続きしないのです。
常に革新的である事こそが、成功するということだと考えています。


だからこそ、大人たちは、天才を欲しがります。
天才を天才として欲しがるのではありません、革新というスパイスを欲しがっているのです。
ある意味で、自分自身への刺激のタメに。

なぜなら、天才を登用する人間もまた、天才を自負しているからです。
(単なる野次馬はおいといて)


さて、ここまでの話は前座。天才は社会の天才にとって不可欠であるという話。

タイトルは才能とは何かという話。
脱線が過ぎたようです。

世の中には、明らかな才能と普通の人たちが考えるものがあります。
それは、例えば、世界記録を更新し続ける運動選手達のそれであり、
歴史を揺るがす大発見を行う科学者のそれです。

しかし、実際の所これは「見えやすい天才」でしかありません。
少し考えれば、彼らを本当に愛していたのは才能の神々ではなく、
・その物事に打ち込ませる偏愛の神
・他人より優れた状態でありたいプライドの神
・あらゆる意味で不可欠な運の神

であるということに。

運動選手のそれは、そのうち「タイムマシン」でも出れば解決するでしょうが
その運動が好きで、勝利するためにあらゆる努力を怠らず、そして何より、本番にあらゆる致命的な不運が重ならない。

それが最低条件です。

科学者は言うに及ばず。


では、本当の才能とはなんでしょうか。


私が思うに、本当の才能。
あらゆる意味で、すべての人が持っていて、そして「使えない」才能。
 捨てる才能です。

もっと言うと、優先順位の付け方、教育によるそれが本当の才能であります。
前述の彼らも、恋愛に勤しんで、クラスで人気者であり、学業も一番で、常に平和的であり...
という人間は殆どいないでしょうし、いたとしても、それはその世界では天才になりえません。
他の世界にいるでしょうから。

…各方面から、怒られそうなので、このへんで結論を書いて終わりにしたいと思います。


才能は、何かと引きかえに悪魔が与える。


BeepCapでした。

2 件のコメント:

三年寝太郎 さんのコメント...

天才の持つ脆さ、これが凡夫な俺を慰める材料。


ペシミスト、ルサンチマンと不本意なレッテルをはられた俺が叫ぶ。
「ホワイトシチューの旨さは異常」

BeepCap さんのコメント...

私は宣う
「ホワイトシチューよりハヤシライスだ!」と。

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